アフターコロナの世界(日本)とはどのようなものだろう。

 7月も終わりに差し掛かり、雨ばかりの四連休を怠惰に過ごしたのちに政府の新型コロナウイルス対策で在宅七割をみたいなニュースを見て、ふと思ったのだ。アフターコロナの世界とはどんなものだろうと。もちろん自分は医者や経済学者といった専門家では無いし、政治家や経営者の様にその具体像を描く立場にあるわけでは無い。しかし二十代という人生の選択の余地が多い(と信じている)今の時期にコロナに遭遇した自分としては、人生の舵取りにおいてその予想は極めて大切なものである。

 

収束とは何か

まずアフターを考える上での最初の条件として、収束とは何か。ということになるだろう。ぱっと思いつくゴールは、中国・武漢で行われた様な徹底的な封じ込めである。しかし、これは中国国内的には成功したらしいが、日本を始め世界中にコロナウイルスは伝染し猛威を奮っている。その脅威は医療体制の貧弱な発展途上国や経済優先で対策をしないと宣言しているブラジル等の存在を踏まえると世界レベルで達成するのは不可能である。もしこれが死亡率が高いウイルスなら世界中の国が浄化された国と浄化できていない国との間で分断されるというSFの題材の様な展開になりそうだが、死亡率はそこまで高くなく、グローバル化が進み入国制限の中でも物流等は止められていない現代社会において不可能であろう。そう考えると収束とは、コロナウイルスを受け入れた状態で社会が回復するという形を想定するのが自然である。そうなる為に必要なのは、治療薬やワクチンとされ各国が躍起になって開発競争をしている。しかし、現実の問題としてこれは相当先になるのではと思っている。というのは開発が一年以内にできたとしても、それが開発国以外に提供され世界が落ち着きを取り戻すだけの生産・接種体制を手に入れて世界的に感染者が0になるという日は相当遠い…というか不可能なはずと思うだからだ。そう考えるともっとシンプルにコロナウイルスを受け入れるというのが収束の形になるような気がしている。決して甘く見るようなウイルスで無いのは承知だが、結局いつかはブラジルの大統領の言うように受け入れて経済を回すということになるのだろう。とはいえ先進国、まして日本にその決断ができるのは、たとえ国内には殆ど入ってこなくてもワクチンや治療薬の目処がついたときかもしれない。

 

アフターコロナの世界(日本)とは

  これからの数年間、コロナの存在を前提として社会が進むことになるとなれば日本の社会は変わらざるえない。幸いなことに日本においてはアメリカの様に制御不能にはなっていないので、今後も経済を基本的に回しつつ、医療体制が逼迫したら即座に緊急事態宣言を出して逼迫を解消するというプロセスを繰り返すことになるのだろうが、どこかで経済を優先して後手に回り制御に失敗すれば大惨事となり、政府ごと吹っ飛びかねないわけでもっと経済と医療体制の維持を目指すということを国民に示すべきなのではと思ったりもする。

 

  日本においてはコロナが流行り始めたのがこの4月で新学期・新年度という時期だったことで支障も多かったのだろうが、これが入試シーズンにぶつかっていたらと思うとこのタイミングでむしろ不幸中の幸いだったのでは等とも思ってしまう。現在企業や自治体・教育機関は必死でテレワークや感染防止策を打ち出しているが、テレワーク自体は以前から制度としてやろうとしたことは何度もあった。狂気の沙汰としか思えない通勤電車での通勤ストレスや莫大なオフィスの賃料を考えれば、出社の必要性がどれだけあるのか等、多くの人が内心思っていたことだろう。しかしそれが実現しなかったのは、今までと違うことをやる理由が無かった。そしてその変更を後押しする理由が無かったからだ。それがコロナにより、強制的にやらなければならなくなった。たとえセキュリティ上の懸念やサボりの問題があっても、それを飛び越えてテレワークを実現する大義名分ができたのである。日本において大義名分が如何に大事かは、天皇親政の名で歴代の施政者が決まってきたことからも明らかである。しかしそんな大義名分であっても日本人はニューノーマルとして定着してしまえば普通に受け入れられる国民性があると思っている。だから意外とアフターコロナは日本の悪しき伝統の多くを変えてくれるかもしれないなと思っている。