意見を意見として受け入れられない人に疲弊する中でどう生きるべきなのか。

ここ数日以下の事件に関するツイートが結構TL上を流れてくるのが、正直なところ大分飽き飽きしている…大体のツイートが「鍵をかけていなかった」という点についての争いである。

www.sankei.com

 

 「鍵をかけていない」という事実に対して、「不用心」「セキュリティ意識」の低さを指摘する声に対して、「悪いのは犯人だろう」「被害者に対してそういう事を言うのか」の様な点において論じられている様に思える。

 

 正直なところ不毛過ぎて個人的には見ていて苛つきを覚える。どちらの言っていることも最も普通に社会を生きるものにとっては当然の帰結としての発言である。だがそこに「悪い」もしくは「落ち度」といったニュアンスが被害者に向けられる様に受け取る中で対立へと議論が低次元化していくのだろう。正直、その程度のニュアンスくらい自分で読み解けない人間と何かを論ずることに意味は見いだせない。

 

 しかしこの手のことはリアルでもよくあり、社会の中で「正義(理想)的視点」と「現実的視点」もしくは「非難」と「批判」といった物事の区別がつかない人間が多くいるのだなと思う。そして社会に現実にそうした人が一定数存在している以上、私を含め向き合っていかねばならないのだろう。私は相手が最後までコミュニケーションを諦めない人間であれば、最大限の努力を惜しむ気は無い。だが、現実にそうした人間の多くは自身に対する意見を述べられるとまるで個人に対して非難を受けたかの様に反応してくるのが対応が難しい。私自身が絶対的に正しいなんて言うつもりは無いが、こうした人間とどう向き合うべきなのか誰か教えて欲しいものである。